苦言を呈すの違和感が止まらない“正しさの言葉”が対話を壊す前に

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その「苦言」、本当に届けたい相手のためですか?

SNSで炎上案件が起きると、よく目にする表現がある。

「〇〇に苦言を呈した」

正しいことを言っているように見える。
冷静で理性的な印象もある。
でも、私はそこに何とも言えない引っかかりを覚える。

その言葉が放たれた場面には、たいてい“誰かが言葉を失っている空気”があるからだ。
「伝えるため」ではなく、「黙らせるため」に選ばれた言葉──
そんな気配を感じることが、一度や二度ではない。

「苦言」の本来の意味とは?──辞書と実態のズレ

「苦言」は、本来こう定義されている。

耳に痛い忠告。相手の非をあえて正すこと。

つまり、「相手のため」に、「言いにくいことを伝える」行為だ。
けれど、SNS上で多用される「苦言」はどうだろう?

  • 相手の感情や状況を無視して“正しさ”だけをぶつける
  • 関係性や立場の前提がないまま、ただ理屈だけが滑っていく
  • 「これは苦言だから」という免罪符によって、傷つける側が正当化される

これでは、「忠告」でも「助言」でもなく、ただの“言葉を整えた攻撃”に近い。


『舟を編む』が教えてくれた「言葉の届け方」

私は、三浦しをんさんの小説『舟を編む』に強く影響を受けた。

辞書を編む人たちは、
一語一語の意味を調べ、考え、誰にどう届くかを想像しながら、語釈を磨き上げていく。

その姿勢に触れてから、私はこう思うようになった。

言葉は、使うものではなく、預かるものなのかもしれない。

語そのものではなく、「どのように届くか」が問われる──
それが、現代のコミュニケーションで忘れられがちな大事な視点だ。

正しさより、通じ方──過去の失敗から気づいたこと

かつて私も、「正しい言い方」をしていたつもりだったことがある。

丁寧に、理路整然と、相手をたしなめるような文章。
でも後から見返してみると、それはただの「やわらかいマウント」だった。

届けるつもりが、ねじ伏せていた。
伝えるつもりが、勝ちたがっていた。

「苦言」は、その構造を内包してしまいやすい言葉でもある。

本当に“届けたい”なら、言葉に向き合うしかない

私は、言葉を選ぶときに次の問いを投げかけている。

  • これは、本当に相手のための言葉か?
  • 届く前に、突き刺して終わってしまわないか?
  • それを発したあと、自分は何を背負う覚悟があるか?

言葉を武器にしないためには、
「使えるかどうか」より「残るかどうか」を意識する必要がある。

「苦言」が暴力になる時代に、どう言葉を持つか

SNSは、スピードと衝動のメディアだ。
その中で「苦言」は、扱いを誤ればたちまち“鋭利なもの”になってしまう。

だから私はこう考えている。

「言葉を選ぶ」とは、相手との距離だけじゃなく、自分の未熟さを測る作業でもある。

届かないと分かっていても言うべき時はある。
でも、届く可能性を少しでも高めたいなら、言い方、タイミング、関係性──全部含めて“言葉”だと思っている。

結びに代えて:あなたの「苦言」、誰に届いていますか?

あなたが「苦言を呈したい」と思ったとき、
その言葉は本当に誰かの未来を思っているだろうか。

それとも、「自分が正しい」ことを示したいだけではないか?

私はいつもそこが怖い。
だからこそ、自分の言葉を何度も読み返すようにしている。

「言葉は、使うものではなく、渡すものだ」と思っているからだ。

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