知られていること自体が、ひとつの力です。
中身がいいか悪いか。その手前で、もう勝負がついていることがあります。まず、知られているかどうか。ここで、多くのことが決まってしまう。
少し、自分の話をします。
期待して、お金を払って、受けに行った
私は以前、ある高額の講座を受けました。期待して、お金を払って、わざわざ時間を空けて、受けに行きました。
正直に書きます。中身は、残念でした。24時間の講座のうち、19時間ほどは、雑学と、確率の問題。人生で使えると思えた部分は、ほとんどなかった。受け終わって、「これに、この金額を払ったのか」と、しばらく座っていました。
でも、この話を、そこで終わらせたくないんです。「あんな講座、中身がなかった」と叩いて終わるなら、書く意味がありません。
その講座には、私にはない力が、ひとつありました。
知られていた、ということです。
知られることを支えた、ラベル
経歴の見せ方が、うまい。権威の使い方が、うまい。だから、人が集まる。私のように、期待してお金を払う人が、集まってくる。中身が残念でも、人は集まっていた。知られていたからです。
その「知られる」を支えていたものの一つが、目に見えるラベルでした。博士号、学歴、肩書き。こういうラベルがあると、それだけで人は「すごそうだ」と感じます。
ここで、はっきり分けておきたいことがあります。
このラベルは、見習おうにも、見習えません。サボっているからでも、態度が悪いからでもない。タイミングの問題です。
取り返しのつかないもの
学歴のようなラベルには、手に入れる時期があります。学生のころ、若いころ。そして厄介なことに、その時期には、価値に気づきにくい。気づいたころには、もう、その時期を過ぎている。
子供のころは、親に養われています。生活費の心配をせずに、学ぶことに専念できる。学費も、暮らしも、周りが支えてくれる。だから、ラベルを取りに行ける。
大人は、違います。自分の生活費は、自分で稼ぐ。学び直すといっても、その間の生活が、止まってくれるわけではない。働いて、家のことをして、その合間に時間を作る。子供のころとは、前提がまるで違うんです。
学歴も、人生も、取り返しがつきません。だから、「あの講座のように、権威で知られればいい」と言われても、多くの大人には、そのラベルがもう手に入らない。努力の問題ではない。ただ、時期が過ぎている。それだけのことです。
(もちろん、大学は、80歳になっても入れます。でも、それは、しかるべき時期に、しかるべき価値として手に入れるのとは、別の話です。)
いいものは、知られなければ埋もれる
ラベルの話から、もう少し広げます。
中身が薄くても、知られていれば、人は集まり、お金が動く。逆に、中身が良くても、知られていなければ、埋もれていく。
世の中には、いいものを持っているのに、知られないまま埋もれている人が、いるはずです。腕のいい職人。誠実な小さな会社。
ただ、正直に言えば、外からは、それが本当にいいものかどうか、分かりません。埋もれているものの中には、本当に大したことのないものも、あるでしょう。知られていないものを、なんでも「いいのに埋もれている」と美化するのも、違う。
それでも、一つだけ、確かなことがあります。知られていなければ、いいか悪いか以前に、選ばれる土俵にすら、立てない。良し悪しを判断してもらう、その手前で、終わっている。
虎の威も、知られてこそ
「ネームバリュー」という言葉があります。「虎の威を借る」とも言います。権威を借りて、自分を大きく見せる。ずるい、と感じる人もいるでしょう。
でも、よく考えてみてください。虎の威も、まず知られていなければ、効きません。
誰も知らない権威は、権威として働かない。借りてきた虎が、世間に知られているからこそ、その威が効く。つまり、虎の威を借りること自体が、すでに「知られている」ことの上に、成り立っているんです。
権威で売るのを批判するのは簡単です。でも、その批判をしている間にも、知られている側は、人を集め続けています。
それでも、学べるものがある
ここで、終わりたくないんです。
「ラベルは取り返せない。だから、知られないものは、ずっと埋もれるしかない」。そうではありません。
知られる力は、ラベルだけでできているわけではないからです。
権威というラベルは、「あの人はすごそうだ」という、上からの視線を集めます。けれど、ラベルを持たない人間が知られるとしたら、たぶん、別の道です。なぜ自分がこれをやるのか。どこで迷い、何に手間をかけているのか。うまくいかなかったことも含めて、隠さずに見せていく。上から見られる力ではなく、経緯や弱さを共有することで生まれる、共感と信頼。そういう知られ方なら、ラベルがなくても、積み上げられます。
これは、集客のテクニックの話ではありません。自分の事実を、自分の言葉で、見せていくということです。そして、それは、学べる。
取り返しのつかないものと、これから身につけられるものを、分けて考える。手に入らないものを羨むより、学べる方を、学ぶ。話は、そこからです。
問われているのは、その両方
私は、あの講座の中身には、がっかりしました。それは、今でもそう思っています。
ただ、はっきりしているのは、彼らには知られる力があって、私にはない、ということです。私は、まだ何も売れていない。売れていない人間が、知られている相手を、上から評価できる立場ではありません。むしろ、学ぶべきは、私のほうです。
ひとつ、気をつけたいことがあります。「中身はもう十分だ。あとは知られ方だ」と思った瞬間、私は、あの残念な講座と同じ側に立ちます。中身がないのに、知られている。その、ちょうど裏返しになるだけです。
中身を磨くことも、知られることも、どちらかで終わるものではありません。軸は、一度作って終わりではない。疑って、現場で確かめて、作り直し続ける。知られ方も、同じです。だから、両方を、同時に回し続けるしかない。
中身だけ磨いて「いつか分かってもらえる」と待つのも違う。知られる技術だけ覚えて、中身を止めるのも違う。「中身がない」と叩いている時間にも、できることがあります。
いいものを、さらに良くしながら、どうやって知ってもらうか。問い続けるのは、その両方です。